昭和54年06月21日 朝の御理解



 御理解 第62節
 「昔から、人もよかれわれもよかれ、人よりわれがなおよかれというておるが、神信心をしても、わが身の上のおかげを受けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでゆくのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ。」

 なかなか難しい御理解です。確かにわが身におかげを受けて、そして後に人を助けてやれと。そこにやはり信心というのは、本当はそうじゃないのですけれども。私どもが難儀を感ずる。そこからまぁ色々とそれが病気であるなら、医者にも頼る薬も頼ってみる。拝みどころがあるなら拝んでも貰ったりもする、というものが信心の入口でしょうけれども。矢張りそこに難儀を感ずると言う事の時が、一番御神縁を頂くまぁチャンスだと言う事になりますけれども。
 難儀を感じておっても、中々それを素直に「はい」とこう受けられない何ものかが、それを言うならばめぐりと言う様な風に頂いても良いでしょうと思います。助け船をそこに出してあってもそこに乗ろうとしない。これはまぁ確かに自分がおかげを受けて、そのおかげの体験を人にまぁ伝えて行く。もう自分がその体験を持っておれば持っておるほど、神様を信ずれば信ずるほど、合楽でいう信心はこんなに有難うして、こんなに尊いもんで、こんなにも楽しいものはないと思うにつけてもね。
 こういう信心を、みんなが頂いて下さったら素晴らしかろう。これが世の中に本当に広まって行ったら、どんな素晴らしい世の中が出来るだろうかとこう思います。所が矢張りそういう、素晴らしいものであっても、中々それに着いてこうとしない。もうそこでどう言う事になるかと言うと。そのにわかに先生にはなれぬと。一段一段進んで行くのぞと、最後に言っておられます様に。
 そういうおかげを受けて自分の心の中に有り難いと。こんなにも素晴らしいというものを、自分の心に頂いておる心をもういっぺん確かめて、もっと本当な有り難いものを頂いて行く。いうなら一段と信心を進めて行くよりも、他に手はない様な感じがするんです。それで本当に救いを求め本当に助かりたいという人達には、いうならば簡単にお導きが出来るかと思うと。どうでもこの人をお導きして助けてあげたいと思うても。なかなか導かれないという人もある。
 そういう時に私どもが、人を助けてやると言う事よりも、まずわが身の上におかげを受けてという、そのおかげの世界をもっと広く、大きくして行く以外にはないという風に思うんですね。今合楽で説かれておる合楽理念なんか、本気で皆さんが合楽理念をマスターする気になって。それを日々の生活の上に本気で行じたら、もう絶対お徳が受けられんです。絶対な道が開けられるんです。それを私自身の体験からね。皆さんに言うなら口を酸ゆして、お話を聞いて頂く訳ですけれども。
 それでも矢張りそれがみんなに浸透して行かない。いうなら目が粗いのですから、結局自分達の信心の目の粗さというものを、もう一遍頂き直して、目ごまい信心にもう一段、信心を進めさせて頂く手立てを頂いて行くより他にないと。そして色々自分の我情でお導きをするのじゃない、自分の我欲でお導きをするのじゃない。自分の見栄お導きをするのじゃない。もう神様に使うて貰うて、神様からお育てを頂き、神様のお導きを頂くより、いうならば愈々ご神縁が熟する事の為に。
 まずわが身におかげを受けてという。わが身の上におかげを受けて行かなきゃならん。御神縁が熟してない所に、こんなに有難いというても、その本当に有難いですねと、共感を相手に与える事が出来ない。昨日研修の時に話したことでしたけれども。昨日は不思議によその教会の、まぁ主だった信心をなさっておられる方達が、合楽におかげを頂いて、合楽の信心の有難い事が分かって、それで自分の頂いておる、自分の近くにある教会も、一緒に助かって貰いたいと言う様な願いをもって。
 お参りをしておられると、いろんな問題が起こってくる。もう先生との間にトラブルが起こる様な状態である。どうここを通り抜けたなら良かろうかという様なお願いが、昨日は、いくつも重なりました。そんなことを話題にしての話でございましたけれども。昔あの鴨緑江節(おうりょっこうぶし)という、あの歌がございましたよね。あの替え歌にこんな文句があるんです。
 「極楽と娑婆との間の、あの三途川、流すお慈悲は良けれども、よくよく煩悩にほだされて、極楽世界に着きかねる。ちょいちょい」という歌で、お年寄りの方はみんな知ってますよね。こりゃ替え歌です。朝鮮とシナと境のあの鴨緑江という、あの鴨緑江節なんですけれども。私は昨日しきりにこれを思い出させて貰うて、そしてその事を話して私の思いがもうそのままなんですけれどね。この川を渡りゃ絶対そこに、極楽世界があると言う事を私が実証して、私がお話をしとるのだから間違いがないのだ。
 先日私が熊谷さんから聞かせて頂いたんですけれども。今あちらにおられます、安武先生がもう一晩中、お夢を頂いておられた。普段あんまり長いお夢であったから、それきりのぼせて起こされて起きられた。今私はずうっとその、もうそれこそ有難い有難いあの世での生活の状態を、ずうっとお夢の中に頂いておった。そこにはもう本当に沢山な、親先生が言われる通りの御霊の世界。もうこの世もあの世も一つも変わらん。結局この世で沢山金を持った人は贅沢しておるように。
 あの世ではお徳をもった人だけが、いうならば助かっておる。そういう世界。そこに親先生もおられるんですという訳でした。それでほんなら親先生も亡くなっておられたのですかと言う事だった。ところが親先生はあの世とこの世を、掛け持ちにしてあちらを救い、こちらを救いしておられるというお夢であったというのです。私が頂いておる御霊の世界と一致するんです。熊谷さんなんかはその話を、何時も以前に頂いておられましたから。安武先生の話がぴったり分かった訳です。
 けれどもあの世とこの世を、いたり来たりしておるというのは、安武先生の話でほう、そげなこつかなと、自分で思ったくらいでしたけれどもね。私が知りえておる言うなら、御霊の世界。いうならここでは極楽世界の向こうに、もういっちょ合楽世界というのがあるんだと。神と氏子とが仲ようする助かり合うて行けれる世界があるんだと。そのために、まずは何というても良い善道を受けなければならない。宗教で持って色々様々である。だからこれなら絶対これなら間違いないという。
 まず善道を受けてそこでおかげを受けて、はぁ信心ちゃ有難いもんだな、勿体ないものだと。いうなら善導寺から勿体島、そして自分の心の中に喜びの花を咲かせる。それこそ、花で勝負すると言う様な、心の状態を頂いてその心の状態を、常に持ち続ける常持。そして、その常に持ち続ける信心の喜びを、合楽へ向けて行くという。この辺の所です今日のお話は。皆さんが信心というものは、こんなにも有難いもんだ。こんなにもおかげが頂かれるんだと言う事を確信が、段々出来てくる。
 その体験をこの人にも分かって貰ったなら、良かろうと思うて伝えるけれども、伝わらない。家族の者にでも伝わらない。これだけにはどうでもと思う子供にも、伝わらない。どうした事だろうかと。私はそういう場合です。今までの信心じゃ伝わらんのだから、ここを、もう一段進めて行かなければいけないと言う事です。何時かおかげ頂くじゃろうじゃいかんと。自分の信心をもう一段進めて行くという信心。そこからいうならば熱心という信心が言うなら白熱化してくる訳です。
 もう一切が燃やしつくすような言うなら、力が生まれてくるんです。一生懸命の修行の姿というもの。今日でもその前提である所の、心に喜びをという。昨日善導寺の原さんが、お届けをしておられましたけれども。その喜びが確かに湧きます。湧きますけれどもそれが束の間のものである。そういうものではそれこそ、うたかたの喜びと言う事にもなりましょうが。その喜びが育って行くような、おかげを頂かなければならない。おかげを受けて嬉しいというのではなくて、信心を頂いておる。
 身につけて行っておると言う事が有難いというのは、もう一段と皆さんの信心が、もう一段と進めて行かなければ頂けないです。ほんにもう信心のなか奴どんばっかりは、どんこん出来んと。本当こげな有難い信心お話聞かせて、もう分かろうともせん着いてこうとも言わんと言うておるだけではなくて、自分の信心を一段進めて行くと言う所に、私は焦点を置かなきゃいけないと思うです。
 昨日原さんに話したことでしたけれど。ほんなら私の修行ちは、親教会に毎朝朝のお参りをする。もう冬なんかは全然、お風呂と言うものを頂きませんから。朝晩水曜だけですから。もう体がこう油気がなくなって、ぱさぱさしとるからヒビあかぎれが、善導寺まで、椛目から歩いて勿体島ごろまでは、もう痛いの痛いのと言うて足のそのあかぎれが割れてくるんです。それでそのそれを踏みしめて行きよるから。それがこう割れてまた血が出るようになると痛くないです。
 もうそれまでが毎朝、痛かったですけどね。そういう言うならヒビあかぎれで、一生懸命の時でも、それこそ朝のお参りをする、その前、必ずお広前のお掃除をさせて貰う。それこそもうお便所から長い廊下を、お雑巾がけさせて頂く時に、もうこら原さん本当でしたばいち。もうお雑巾がけさせて頂いておると、この手の上にそれこそ熱い様な涙がぼとぼと落ちよったち。ほんにこん寒かつにここの時に朝参りして。
 こげな苦労までせんならんと言う悲しい涙じゃないて。どっから湧いてくるか分からんけれども、有難うして有難うして、それこそ熱い様な涙が、手にぼたぼた落ちるぐらいに有難かったんですよ。だから喜ぼうとして喜べるもんじゃない。喜びというのは神様が与えて下さるもの。だから今の皆さんの喜びでは、人が付いてこんのですから、もう一段と進めて行くという信心。
 一段一段上がってだからまぁ何時か、お願いしよるけん分かるじゃろうと思います位のこっじゃ出来んて。もう一段と信心を進めて一段と進める時に、白熱化してくるんです信心が。そげんならば着いて行かなければおられないです。私ども両親がそういう難儀ななかにあって、私がお商売を全然しないで、よそにお話に行ったり、まぁ信心信心でぼうけてしもうたように見えるもんですから。
 親達が色々と話し合いをする。けれども母が何時も言う。もうとにかくお爺ちゃんあの人が、朝外でしたからね井戸が。水垢離を頂きよるあの音ば聞きよったら、とても着いて行かにゃおられんと言うて、両親が話しておったと言う事です。もうあるしこ息子が一生懸命じゃけん。あぁた私どんが着いて行かにゃおれないというの。燃え移って行きよる。だから必ずしもおかげを受けてとって、目の前にですね。
 私は信心しよってこがしこ、儲け出したこんな立派な家が出来たというだけじゃ着いちゃこんて。おかげと言うのはやっぱり自分の心の中にです。それこそたぎる様なその喜びが、頂けれるためにもう一段それが人が助かって貰いたいなら。自分の周辺が愈々助かって貰いたいなら。どうでも矢張り本気で、合楽示現活動に参画させて頂きたいならば、今の信心では駄目だから、もう一段と進めなければならない。
 今度宮崎地区の方へ、二日あちらの研修と、それから霊祭がありましたから、幹三郎を先頭に、四人の先生が行ってとりました。それ今度井上太郎先生も、一緒に行きましたが帰ってきておる、あの丁度当番の御用をさせて頂いとりますから。ここ御用日誌に書いとりますけれども。とにかく宮崎の人達のあの熱意に触れて、もうとにかく行っておる自分がおかげを頂いて来たと言う事を言ってます。成程あの熱意は、宮崎に地方には、あれだけの広がりを見せるんだと言う事です。
 どんなにふうたら温うしとってもです。こちらも燃えずにおれなくなってくるほどしのものを、二日間の間に感じたと言う様な意味の事を、この日誌に書いておるのを見せて頂いてです。確かにこうひれいからひれいの輝いて行くという時には、矢張り中心になる人達が燃えておるです。お願いをしよるから何時か、神様は聞いて下さるだろうというのじゃなくてです。これにはどうでもこの人だけには。
 おかげ頂いて貰わんならんという、願いをかけるならば、思うなら思うほどそこにもう一段と、進めた信心が必要だと言う事です。これはもう私の思いもそうです。ですからもう本気でね、やっぱりおかげを頂かなければいけない。みんなじゃない私自身ももうどう改まって、どう願うて行ったら良いかと。もう心の中にはです、もうこの川を越えれば、極楽世界がある事が分かっておるんだけれども。良くはごぼんの我情我欲にほだされて、いうならば、これがわたる事が出来ないでおる人達にです。
 どうでも分かって貰いたい。皆にもご鞍うに済んで貰いたい、合楽に住んで貰いたいという願いを、もっともっと広く大きく、それこそそこに熱意をかけて行くと言う事がです。今日の御理解のいうならば、わが身におかげを受けて、そして後に人を助けてやれとか、信心は一段一段進めて行く、高められていくもんだと言う事が、高められていくという。それで改まらにゃんとこが、ほんならすぐにでも改まろうと。私は昨日から一つ改まりをさせて頂いた。昨日の御理解の中にも聞いて頂いたように。
 こちらの話は、熱心に聞いておるけれども。こちらの話はうすらパットしか聞いとらんと言った様なお夢を頂いてからね。私は自分のお取次の模様を、んにゃそれはもう本当にもう、何か知らんばってんごたごたごたごた、何時まっでん後ろの人はてんでもう、いらいらしよるのですよ。もうそれだけででもこの人は、おかげ頂き切るまいと思うばってんね私は。そればってんもうてぇげで止めんのち言う訳いかんでしょうが。んにゃ本当ですばい。沢山こうまだ後ろにつかえとるとに。
もうそげなこつはあんたもうそげん長かなら。後からせんのち言おうごたるばってんでけん。それで私はここで自分でお届けを一生懸命、沢山せんならんですからね。だからお届けしながらふんふんち、こう聞きよる訳。ね。だから私がここでお届けしながら聞きよるとは、もうどげんでん良か話ですたい。けれどもこれじゃいかんと私は思いましたですたい。その中にどげなほんなら、話があるか分からんのだから。もう今日からはいうならば、ここでお取次しながら手遊びも止めよう。
 手遊びちいう訳はないですけれどもね。まぁそのうすらぱっと聞いとるとは、そげんじゃろうとこう思う。お届けは沢山あるから、お届けを書きながらこっち、お届けを聞きよる何かちいうのは、矢張りうすらぱっと聞きよるとじゃから。今日からはもうどげな話であっても、本気で耳を傾けて私は聞こうという風に。昨日その事を実行させて貰いました。昨日からだから神様から改まらにゃ一段進めると言われたら、一段進める手立てをすぐ、皆さん作らにゃ駄目です。でないと御理解が何もならんじゃないですか。
 今日ははぁこれじゃ、息子達がついてこん筈、これじゃ嫁後がついてこん筈。何時かはおかげ頂くじゃろてんじゃなくて。そこにもう一段自分の信心を進める生き方をさせて頂いての祈りであり、示現活動であるお導きでなからにゃならないと思う。その一段高めて行く進めて行くと言う事が。ほんならわが身がおかげを受けて、愈々頂いて行く事でしょうが。限りが無いです。どげん言うても言う事を聞かん、分からんと本当に自分がおかげを頂いて、私は昨日も本当に、その方と一緒に教会の事を。
 こんなに教会愛をもって祈っとりなさるけん、その先生に言うたら、先生が腹かきなさったとと言う様なです。本当に教会ぐるみでほんなんら、合楽の信心が分からせて頂いたら。その教会ぐるみが助かって行く。もう一段高いゴヒレイに浴する事が出来るであろう野にと思うても。その自分の見栄とか、プライドといった様なものが邪魔をする。いわゆる我情我欲が邪魔をして、三途の川を超え切らんでおる。それこそ流すお慈悲はもうそれこそ、限りなく流れておるんだけれども。
 神愛の心でこちらはね、よその信者を取ってやろうてんなんてんちゅうな、ケチな考えはこれから先も、こっちには無いのだけれども。問題は助からなきゃならないと言う事だけなんです。その一念に燃えておる。だからその方を通して、その教会も一緒におかげを受けて行かれたら。今の教団もまちっとは、ましな教団になって行くだろうのにと言う思い。こういう思いが分からんちゃ、ほんに情けないこっだと、私は今まで言うておったけれども。その言うておるだけではいけない。
 ほんならそういう度に、私の信心が一段、もういっちょ進まなければならないと言った様な事をね。昨日は考えさせて頂いたんです。その歌の文句から、どんなに自分が、極楽に行っとるけん、みんなも極楽に導いてやろうというても、それこそこうこうして、嫌ち言うもんじゃけんどんこん出来んもん。だからもうしようはなかと言わずにです。こちらがもう一段進めて行く高めて行く。もう一段と信心を進めて行く信心を目指さなければいけないと言う事ですね。
   どうぞ。